傅山の書について

 せっかく書を学んでいるのであれば表現の幅を増やしておくのも悪くなかろうと、傅山《ふざん》(1607~84)の書を習い始めた。


傅山といえば図の如き連綿草を以て知られるが(もっともこの作品は行草相半ばしている)、篆書も書けば楷書も書く怪人物であり、その本質をいかなるものと心得て書いたものか困惑せしめるものがある。


草書五言絶句四首四屛(東京国立博物館蔵)

が、しばらく臨書しつつ考えた末、行儀は悪いが性格は良い書と理解しておけばよいのではないかと思うに至った。

               行書五言古詩巻(個人蔵)

この種の書は派手なところに目を奪われがちであるが、単純で簡潔な表現が随所に見られることを見逃すべきではなかろう。図の二行目下三字「豈但波」、四行目下三字「不知覺」などは抑制的な書き方であり、王羲之の書法を正面から再現しようとしていると言える。案外このようなところに作者の素顔が覗くものではなかろうか。正統で温雅な要素が根柢に存在しているのである。


そのような眼で他の箇所を観察してみると、やはり澄明な線質と悠然たる筆致が一貫していることに気付くであろう。第一行第四字「濟」であれば、氵の最終画は一度真横に向かってから上方へ筆が抜けている。粘りを感じさせる書き方である。この字は徹頭徹尾筆の動きが大回りである。


わたくしは臨書に際して原本の再現に執着しているが、もちろん原本の通りになることはあり得ない。ただし、傅山を例にとるならば、「これを外せば傅山でなくなる」という要素があるのではないかと考えている。わたくしが執着するのはこの点に他ならない。


では傅山ならば何に注意すべきかというに、一つにはなるべく曲線を主体とすることが挙げられよう。鋭角に見える所も拡大してみれば曲線の変種であることがある。鋭角を調味料として用いるのは良いとしても、全体としては曲線の連続であることを銘記したい。従って同じ字であっても

 

                    「鬼」

一字目のように書いては傅山ではなくなってしまうのである。表現としては有り得るものの、傅山を見ながらそのように書くのでは傅山を習う意味がない。もっとも、一字目は一見強そうであるが一本調子であり、二番目の書き方は手が込んでいる上よほど神経を使わねばならない。


連綿でも同様であり、

                   「書屬」

最初の例の如く直線で結ぶのは傅山らしくないと言える。現代人は性急であるため、最短距離で点画を結ぼうとしがちであるが、それでは連綿の表情が乏しくなる。惰性で連綿させてもこれまた無意味なのであるが、字と字が繋がっているだけで驚く人もいるであろう。しかし見た目に騙されてはならない。


傅山に限ったことではないが、点画は末端に至るまで意気が充実しているべきであって、下に挙げる字の最終画は説明の便宜に好適な悪例である。

「嬰」

鋭く払い出しているようではあるが途中で力が抜けている。気が急いたためである。払い出してはいるものの、勢いで体裁を繕っているのみであって丁寧な書き方とは言えない。これまた見掛け倒しの例であり、鑑賞の際に警戒したいところである。強さと乱暴さを取り違えてはならない。

以上、思う所を漫然と述べてみた。読者の示教を切に請うものである。


図版出典

草書五言絶句四首四屛 https://www.tnm.jp/modules/rblog/index.php/1/2017/01/31/%E8%91%A3%E5%85%B6%E6%98%8C%E8%A6%8B%E3%81%A9%E3%81%93%E3%82%8D2/

行書五言古詩巻

中国法書選55『傅山集 明』二玄社、1990年。

著者自筆。原本は行書五言古詩巻。

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