美術の効用について

知人が官途に志して面接に臨んだ。彼は治国の道を学ぶの外、古人の文に親しみ並びに美術を愛好しているので、これを自薦の書類に書いたところ、案の定、それによって何が得られるのか問われたという。どのように返答したのか聞かせてくれたが、無事登科《とうか》したことであるからわたくしが論ずべきことは無い。ただ参考までにわたくしなら何と答えるか記して読者の消閑《しょうかん》の具に供そうと思う。古典のことは他日に譲り、先ずは美術の効用を言うこととする。

「美術を通して心を養えば、さまざまな実益を得ることができます。以前出光美術館を訪れた時、わたくしは一つの器が目に留まり、十分以上それを見つめていました。それは宋代の青磁の器でしたが、目の前にあるのは色と円と直線のみであるにもかかわらず、心から一切の小波が引いてゆき、いつの間にか現代を離れて、粘土を集め、練り上げ、釉薬を施した職人や、これを日々愛玩した文人の手つきに思いを馳せるのでした。しかしこのような心の平静を齎《もたら》したのは一箇の器に過ぎないのです。

心中の憂いを消そうとして酒食の力を借りる人もいますが、必ずしも奏功するとは限りません。消えるのは飲み食いしている間の記憶だけで、それより前の記憶が消えるわけではないことは少し考えれば分かるでありましょうが、身体の不調と悔恨の意識とを後に遺《のこ》してまで杯を取ろうとするのは、おおかた人間には破滅への憧れがあるのでしょう。美術はこれと異なり、百利あって一害なしと言えるものです。

但し、そうであるためには、絶えざる修練が必要なこともまた事実です。美術作品に対峙するのは、審判の場に身を置くことでもあります。贋作を真作と思ってしまったら結局その程度の眼ということになります。贋作の価値について論ずる余裕はありませんが、わたくしは価値の体系を受け入れておりますから、作品には真贋あり、巧拙あり、良いも悪いもあり、雅も俗もあると思っております。一瞬にして作品に心を摑まれることはありますが、『自分の眼は俗物の眼になっていないか』『何を是とし何を斥けるべきか』など、自分自身への問いは引きも切らず浮かんできます。

有名人が良いと言ったら良い作品なのか。評論家が良いと言ったら良い作品なのか。有名人の作品だから良い作品なのか。金額が高ければ、それで良い作品なのでしょうか。

書を例にとらせて頂きますならば、狂瀾怒濤の如き筆づかいが、鬼面人を威《おど》すに過ぎない場合もあれば、ぎりぎりのところで踏み止まることで却って高潔な品格を感じさせるものもあります。またいかにも綺麗に整っている表現の背後に、綺麗に書いておけばそれで良いとする怠惰な精神が潜んでいることもあれば、型というものへの情熱的崇拝が宿っていることもあります。作品の価値を見抜くのはなかなか難しいものです。

余談ですが、有名な公募展を観にゆきましても、何が楽しくて書をやっているのか分からないような作品もあり、そのような作品を見る時ほど空虚な心地に苛まれることはありません。

さて、美術を相手としてこのように修練を積んだら、どうなるでしょうか。歴史を繙けば、美と何ら関係なきものを美術館に展示して衆人の指弾を蒙る等のことがございましたが、少なくともそのような愚は犯さずに済みます。また日々養ってきた審美眼を生身の人間に向ければ、人物の真贋、人品の高下《こうげ》は掌《たなごころ》を指すが如くにして理解できます。

ですから、皆さん、美術はいつでも、どこでも、役に立つのです。いま、ここにおいてさえも。」

わたくしは落第の素質があるかもしれない。

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