会話の方略

「柯北さん、僕の話つまらないですか?」
「何故そう思われるんですか?」
「なんか、話を聞きながらもう結末を見通しちゃってるんじゃないかと。普通の人は一通り話を聞いたあとで『へえ』とか『そうなんだ』とか言うじゃないですか。でも柯北さんは話を聞きながら『ふん、ふん』って言ってて珍しいなと思って。」

それは杞憂である。まず以て、わたくしと話をするような人は大抵こちらの予想を裏切るような結論を用意しているものであるから、多少話の展開を読んでいたとしてもその通りになることは殆どない。それに、わたくしが黙って話を聞いている時は(多くの場合、鼻の前で両手の指先を合わせながらであるが)猛烈に思考を働かせているか相手の素性を見抜こうとしている時であって、相手にとってこれが喜ばしいものであるか否かは議論の分かれるところであろう。

ただ相槌に関しては確かに彼の指摘は当を得ているかもしれない。英語を習うと、間の手を入れて話を先へ進めるべしとか、相手の話に興味を示すべしとかいうことを叩き込まれるので、それが影響している可能性があるが、果たしてどうであろうか。広く意見を徴したい。

外国語を鏡にしてみると、会話とはいかなる現象なのか改めて考えさせられる。会話では話し手と聞き手とが目まぐるしく交替するから、共同作業であることが相互に了解できていないと話が上手く進まない。あまりに受身でいられると困却する。相手が発問しやすいように補助的な情報を加えて答えることもあれば、質問を誘うべく敢えて情報を小出しにすることもある。しかし何と言っても心中 'Hey! Follow-up questions! Come on!' と叫んでいながら何も訊いてもらえない時のぎこちなさ。尷尬 gāngà である。

的確な質問を発することは会話遂行上非常に重要で、尋ぬべきことを常に探りながら聞く位の姿勢でいたいものである。昨年たまたま見た番組はこれに反する様相を呈していた。ある女優が中国の故址《こし》や文物を見て回るのであるが、曖昧な感想を述べるばかりで、わたくしとしては甚だ慊《あきた》らない。せめて自分の既知の事柄と結びつけながら話すとか、自分の理解の当否を質すとか、もう少し何とかならぬものであろうか。能くこれを行って他者を益する人物の代表格はタモリである。実に範とすべきである。

ところでこの女優、どこかで見た覚えがある。よく考えたら映画版『DEATH NOTE』にて弥海砂を演じた人物であった。これはまずい、わたくしの歪んだ正義感が彼女への批判となって表れたようである。冷静になってみれば、あの曖昧さは番組の演出に因るものであったかもしれず、それならば彼女に罪はない。常に寛容の心を持し、対者の態度を然るべく場の中で活かすことができて才《はじ》めて紳士と謂うべきであろう。

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