論語と千字文

わたくしがフランス語を学んでいることがわかると、その人は徐ろにランボーの詩集を取り出して、何でも良いから詩を一篇選んで読んでくれと言う。抜き打ち試験ではない。其の人曰く、ランボーの詩の韻律は非常に美しいそうなので、是非とも原語で聞いてみたいのだと言う。そこで、日本語ででも良いから読んで感銘を受けた詩があればそれをお読みしようと応えると、翻訳で先入観を植え付けられるといけないから全く読んだことがない、とにかく何でも良いから読んでくれと、身を乗り出してくる。即座に適当なる詩を選べるほどの見識を有しておらぬため、何でも良いからというのに甘えてともかくソネットを一篇選んで読み上げた。相手は跳び上がらんばかりの喜びようである。ボードレールとヴェルレーヌの詩は朗唱を習ったことがあるので、そんなにお喜びならばと思ってさらに一篇読めば、手の舞い足の踏むを知らぬ有様である。しまいにはフランス語の発音を教えてくれと言い出した。

自分の知らぬ言語の、しかも日本語ですら読んだことのない書物を、その音が聞きたい一心で購入する。かかる直情径行型の人物は、わたくしの知る限り大学の中に少なく外に多い。しかし学府の中にもいないことはない。わたくしの知るある人は、予備校で西行の歌に触れ、感動の余り授業後ただちに書肆へ走ったという。

わたくしも書物は概して衝動買いであるから、大いに彼らの肩を持ちたい。ここで一碩学を招いて我々の先達として証言を願うことにしよう。

どうしてわたしがギリシアに興味をもつようになったのか、はっきりしたことはわからない。進化論の場合のような特別の機会があったわけではない。強いて思いだすと、神田の古本屋の均一安売りの書物の山のなかから、ギリシア語で書かれたぼろぼろの書物を拾いだし、好奇心で買って帰ったことがあったが、それがわたしとギリシア語との最初の出会いであったかも知れない。それは後からクセノポンの『アナバシス』であることが知られた。どのような好奇心が、このギリシア語の本を買わせたのか、全くわからない。ただ中学生のわたしは、九段上の大橋図書館にかよって木村鷹太郎訳の『プラトン全集』を、ほとんど大部分読んでしまっていたから、プラトンに対する興味があって、ギリシア語そのものにも関心と好奇心をもつことができたのかも知れない。(田中美知太郎「関東大震災のころ」(*1))

知識欲、読書欲も欲の一種であるから、人を真似してこれを搔き立てようと思ってもできるものではない。上の諸例に見られるような知性の火種を守り、正当に育んでゆけば、末はどうなることかわからない。

中には外観からこの道に入る人もある。これまたわたくしの知るある人は、線装本をめくる姿はさぞかし颯爽としていようとて、『先哲叢談』《せんてつそうだん》の版本を買った。これなども良く理解できる感覚である。高校生の時分は、電車の中で英単語の参考書を読んでいたりするよりは原書を手に持っていた方が見栄えが良かろうとて、サピアの『言語』なぞ読んでいたものである。

この場合、玩物喪志《がんぶつそうし》に陥る虞《おそれ》 は当然ある。書物を室内の装飾としか見ない人間もいることだろう。そのような者と見栄坊の若者とを分かつものは何であろうか。これ他なし、金に物を言わせているか否かである。金があるから本を買う者は、金がなくなれば買わなくなる。見栄坊は金が無くとも買うのである。

この類型は真似をしようと思えばできようが、真似が完遂できるか否かは偏にその人の真実さ如何にかかっている。

真似できないことの第三は偶然である。ある人がある本を偶然手に取ったことを知って、その本を自分も偶然手に取ろうと欲する――まるで頓智噺のようだ。偶然型は衝動型に近いが、どちらかといえば書物の方からこちらにやってくるという感が強い。わたくしは中学一年の時、漢文を学びたいと思って、祖父母の家へ行ったついでに書店に立ち寄り、『論語』と『千字文』とを買った。かくして今に至るのである。両書に手を伸ばしたのも天、参考書に手を伸ばさなかったのも天である。その時の本棚の有様やそれを買う自分の姿は昨日のことの如く眼に浮かぶ。我が国に渡来した王仁の労がこれによって少しでも報われていれば幸いである。

(*1)田中美知太郎『哲学入門』(講談社学術文庫、1976年)所収。pp.38-39


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