鶯さそふ

花の香を風のたよりにたぐへてぞ鶯さそふしるべには遣る  紀友則

ある日のことである。朝から東京駅のあたりを逍遙した後、鳩居堂へ赴いて炭団《たどん》を購った。階段の踊り場にてメールの確認などしてから出口へ向かうと、見覚えのある後ろ姿がある。覗き込めば書道の後輩甲であった。用事を一つ二つ済ませたところで、これから一丁目で人と落ち合うのだそうである。

「そういえば乙さんは御元気ですか?」
「元気だよ。修論を書き終えて、猛烈に研究をしている。立派なものだ。――さてと、私は松屋でお別れするよ。利休展を見に行くからね。」

香道で御一緒している丙女史から利休展の情報を得ていたのである。八階の会場を出ると乙から LINE の返信が来ていた。

「甲君は元気でしたか? 最近会っていませんが。私はこれからこちらの書道展を見に行きます。一時間位したら銀座に着きますが、柯北さんも行かれますか?」
「行きましょう。紙パルプ会館ですね?」

さて八階から下りる途中、アンティーク時計市が近々開かれるという広告を目にしたので、すぐさま時計好きの後輩丁に知らせると、丁度授業の無い週だから行くとの返事である。久々に会う約束もついでに取り付け、七階の企画展示「茶の湯とデザイナーたち」を一見して往来へ出た。

すると今度は後輩戊からの連絡である。

「インスタのストーリー拝見しました。鳩居堂の香りフェア、先輩はいらっしゃいますか? 御一緒に伺えれば嬉しく存じます。」
「貴兄が行くなら行きましょう。まだ銀座にいるので、予約が要るのかどうかなど訊いてきますね。」

再び鳩居堂を出た頃には乙がこちらへ着いていても良い時分になっていたので、展覧会場へ向かい、倶に清代の書画篆刻を賞翫し、然る後松屋裏なる仏蘭西屋にて芸術談義に時を移した。

その夜わたくしは己氏に連絡を入れた。

「先日御紹介下さった仏蘭西屋へ行って参りました。良い雰囲気のお店ですね。ありがとうございました。」
「いらっしゃったんですね。ちょうど私は昨日そのすぐ近くの王子ホールへ行っていました。偶然ですね。」
「なんと! さらに偶然ですが、先ほどメールが来まして、以前家庭教師として教えていた子が、受験直前期間にもう一度古文漢文を見て欲しいというので、再びそちらへ通うことになりました。そんなわけでちょくちょくおそばへ参ります。」

己氏と生徒の庚君とは同じ町に住んでいるのである。

これがある日のわたくしの身にふりかかったことのあらましである。読者はその真偽を疑うであろうか。

然しこれは實地の遭遇を潤色せずに、そのまま記述したのに過ぎない。何の作意も無いのである。驟雨雷鳴から事件の起つたのを見て、これ亦作者常套の筆法だと笑ふ人もあるだらうが、わたくしは之を慮るがために、わざわざ事を他に設けることを欲しない。夕立が手引をした此夜の出來事が、全く傳統的に、お誂通りであつたのを、わたくしは却て面白く思ひ、實はそれが書いて見たいために、この一篇に筆を執り初めたわけである。(永井荷風『濹東綺譚』)

これで話が終わらないから罪が深い。翌日のことである。さる用事があって、香道のお仲間の辛夫人と本郷でお目にかかったのであるが、その帰り道、本郷三丁目の駅の改札でこれまたお香で御一緒の壬女史と鉢合わせしたのである。さらにその夜 Facebook を見て、着道楽《きどうらく》連の一人である癸氏が昼間本郷へ講演を聞きに来ていたことを知った。

「本郷へお越しだったんですね。今日わたくしも大学にいましたよ。」
「なんととと! 今度行くときは連絡します!」

数日後、杯を傾けつつこの話を後輩丁に語って聞かせた。

「柯北さんが銀座にいらっしゃったのって、日ですか? ……その日僕も銀座にいました!」

香水を買っていたのだそうである。


〈作後贅言〉

「香りに誘われてこれだけの鶯がやってくるとはね。皆の人生が私の上で交錯している。勝手に交錯している。私は茫然とするばかりだ。渋谷の四辻の真ん中でぽつんと立ってるような気分になるよ。もうどうにでもなれって感じだ。」
「僕なんか連絡を貰っただけで結局蚊帳の外か、と思って聞いてたんですが、やっぱり繋がりましたね!」
「お前もか、と言いたいよ。」
「へへへ。」
「さっきだって時計屋の小母さんに話しかけられたろう。」
「あのおばさんも凄かったですね。話し方も。ほとんどタメ口じゃないですか。」
「何だか話しかけられそうな予感がしてたんだよ。こうやって始終声を掛けられるのは何なんだろうね。自分としては、偏奇館を天守閣とし、背広を鎧としてこれすなわち天下無双の城郭なりと意気込んでるんだが、はたから見たらガバガバなのかもしれない。
しかしあの小母さんが言うことは一々もっともだね。確かにアンティークともなれば勉強しないといけない。ファッションでは済まされないものがある。やれ歴史がどうの、中の機構がどうの、伝来がどうのと、男の場合そういうところへ考えが及んでゆくからな。」
「ですね。」
「この調子じゃあ明日も無事に終わるかどうか分かったもんじゃない。しかし運が向いてきてるのかもしれないな。この前なんか某駅の前で御婦人に呼び止められたよ。『会社の研修で、社会人の方の結婚に関する意識を調査してるんですが』と言うから『大学院生なので』と言って断ったんだが、考えてみたらあそこで一寸お茶でもということにすれば良かったんだね。」
「はあ。」
「他生の縁を積み重ねてゆけば、ことによると驟雨雷鳴をきっかけに私の傘へ飛び込んでくる小鳥もあるかもしれない。花の雫にそほちつつ……。」
「ふふふ。それにしても丁さん、結構お強いんですね。」
「僕そんなに飲みましたか? でも全然平気ですよ。」

そう言うと丁は自分に出されたカカオ豆ではなくわたくしの塩豆の方へ何の躊躇いもなく手を伸ばした。

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