蟄居所感
たれこめて春のゆくへも知らぬまに待ちしさくらもうつろひにけり 藤原因香
と言うのは気が早いが、迎える支度もととのわぬうちの春の訪れであった。世の中は流行り病、加えて論文を四件抱えていたために数旬を垂れ籠めていたのであった。文章を作ることは固より願うところではあるが、それでも憂悶堪え難き思いをなしたのは、何と言っても人と議論をする機会に恵まれなかったが故である。独り静かに考える時と、人々と対話する時と、概ね相半ばするようでなければ精神の均衡を保ち難い。道を修むること浅く、「魚蝦《ぎょか》を侶《とも》とし麋鹿《びろく》を友とする」までには至っていないのである。
物質的方面についてみても、所により物によっては物資欠乏の様相を呈しているというのも、世情かくの如くであってみれば宜なることである。
「釣れますか?」
「いや、からきし駄目ですな。近頃じゃ、魚も口を開きたがらない。」
まことに、人心安からざる時は、片言隻句ばかりが取り上げられて褒貶の射撃にさらされる。もはや文章ではなく、ただ一単語であったとしても、オーストリア大公夫妻に放たれた銃弾に等しい力を持つようになる。
人の指弾を避けるばかりでなく、罹患を防ぐためにも至近距離での会話は望ましくないとあらば、言論の囂々たるに反して、寧ろ巷では古き良き世の若き男女の風俗が蘇るかもしれない。
小さな喫茶店に
這入つた時も二人は
お茶とお菓子を前にして
ひとこともしやべらぬ
そばでラジオは甘い歌を
やさしく歌つてたが
二人はただだまつて
向き合つてゐたつけね(*1)
「一つグラスにストローが二本」となるにはあと十年はかかるであろう。
(*1)「小さな喫茶店」中野忠晴(歌)F. Raymond (曲)E. Neubach(詞)瀬沼喜久雄(訳)
と言うのは気が早いが、迎える支度もととのわぬうちの春の訪れであった。世の中は流行り病、加えて論文を四件抱えていたために数旬を垂れ籠めていたのであった。文章を作ることは固より願うところではあるが、それでも憂悶堪え難き思いをなしたのは、何と言っても人と議論をする機会に恵まれなかったが故である。独り静かに考える時と、人々と対話する時と、概ね相半ばするようでなければ精神の均衡を保ち難い。道を修むること浅く、「魚蝦《ぎょか》を侶《とも》とし麋鹿《びろく》を友とする」までには至っていないのである。
物質的方面についてみても、所により物によっては物資欠乏の様相を呈しているというのも、世情かくの如くであってみれば宜なることである。
「釣れますか?」
「いや、からきし駄目ですな。近頃じゃ、魚も口を開きたがらない。」
まことに、人心安からざる時は、片言隻句ばかりが取り上げられて褒貶の射撃にさらされる。もはや文章ではなく、ただ一単語であったとしても、オーストリア大公夫妻に放たれた銃弾に等しい力を持つようになる。
人の指弾を避けるばかりでなく、罹患を防ぐためにも至近距離での会話は望ましくないとあらば、言論の囂々たるに反して、寧ろ巷では古き良き世の若き男女の風俗が蘇るかもしれない。
小さな喫茶店に
這入つた時も二人は
お茶とお菓子を前にして
ひとこともしやべらぬ
そばでラジオは甘い歌を
やさしく歌つてたが
二人はただだまつて
向き合つてゐたつけね(*1)
「一つグラスにストローが二本」となるにはあと十年はかかるであろう。
(*1)「小さな喫茶店」中野忠晴(歌)F. Raymond (曲)E. Neubach(詞)瀬沼喜久雄(訳)
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