教育について
三月末を以て個別指導の勤めを終えた。学振の副業規定に遵ったためである(*1)。
採用されたのは大学院へ進学する直前の三月であり、丁度三年と十日勤めたことになる。無為徒食のまま大学院の日々を荏苒《じんぜん》と過ごすのは心中安からざるものがあり、且つ学士の学位も得たことであるから金を取って人に教えるのも許されようと思い、ここに職を求めたのであるが、幸いに取り立てられたのである。
裏を返せば、学部のうちは未だ金を取って人を教えるほどの学問は無いと考えていたのである。
修行は金を使つてする業《わざ》で、金を取る道は修行ではない。(森鷗外『澀江抽齋』その三十二)
故に漢文の会の如きも、資料の用意に要する費えも全て己が嚢中より出だし、これを後輩諸君に請わなかった。しかしそれはわたくしの修行にはなっても、身銭を切って学を修めることを学ばしめることは出来ない。そこで暫く経ってからは複写費用だけ醵出してもらうようにしたのである。
三年の月日は僅かなものではあるが、その間拳々服膺《けんけんふくよう》していた古言、常に念頭を去らなかった故事がいくつかある。
古言というは、「やつてみせ言つて聞かせてさせてみて誉めてやらねば人は動かじ」云々の歌である。これは註釈を施すに及ぶまい。
故事の一は下の如きものである。
小島成齋が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の兒童が机を並べてゐる前に、手に鞭を執つて坐し、筆法を正すに鞭の尖《さき》を以て指《ゆびさ》し示し、其間《そのあひだ》には諧謔を交へた話をしたことは、前に書いた。成齋は話をするに、多く伊澤柏軒の子鐵三郎を相手にして、鐵坊々々と呼んだが、それが意あつてか、どうか知らぬが、鐵砲々々と聞えた。弟子等もまた鐵三郎を鐵砲さんと呼んだ。
成齋が鐵砲さんを揶揄《からか》へば、鐵砲さんも必ずしも師を敬つてばかりはゐない。往々戲言《けげん》を吐いて尊嚴を冒すことがある。成齋は「おのれ鐵砲奴《め》」と叫びつつ、鞭を揮つて打たうとする。鐵砲は笑つて逃る。成齋は追ひ附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいぢやありませんか」と、鐵砲はつぶやく。弟子等は面白がつて笑つた。かう云ふ事は殆ど毎日あつた。
然るに此年の三月になつて、鐵砲さんの父柏軒が奧醫師になつた。翌日から成齋ははつきりと伊澤の子に對する待遇を改めた。例之ば《たとへば》筆法を正すにも「德安さん、其點《そのてん》はかうお打なさいまし」と云ふ。鐵三郎は餘程《よほど》前に小字《をさなな》を棄てて德安と稱してゐたのである。この新な待遇は、不思議にも、これを受ける伊澤の嫡男をして忽ち態度を改めしめた。鐵三郎の德安は甚しく大人しくなつて、殆どはにかむやうに見えた。(『澀江抽齋』その七十六)
わたくしは人が概ね齢十五を過ぎれば、均しくこれを紳士淑女として遇するようにしている。これは紳士淑女としてのふるまいを期待することになるが、こちらもまた相手を辱めぬ内容を教えるよう努めねばならない。
相手を辱めんことを恐れるがために、わたくしは己の責任において善美と認める所は、たとえ相手が年少であったとしても、子供向けに改変することなく全て一級のものを与えている。勿論その人に応じて示すべきものを選択するのではあるが、その人に適合する一級品を選ぶのであって二流三流の品に甘んぜしめるわけではない。
わたくしはゆとり世代と称せられるだけあって、大人は真実を隠蔽しているという観念を幼き頃より抱き続けてきた。それと同時に「知的な蔑みは最低の暴力である」という訓戒も受けてきた。わたくしが常に人を紳士淑女として遇する所以である。
故事の二は奥野信太郎氏の記す所である。奥野氏はわたくしよりおよそ一世紀前に同じ学校を卒業し、親の意嚮により陸軍士官学校を受験するも二日目わざと科場に赴かず晴れて落第、永井荷風の教えを受けんとして三田に進んだが、惜しいかな荷風は既に講壇を去っていた。北京留学などを経、奥野氏は最終的に慶應義塾で中国文学を講ずることとなる。
これ自体、受験子の緊張を解くには好箇の逸事であるが、わたくしがここに記したいのはこの事ではない。幼き日の奥野氏が漢学の先生のもとに通っていた時の話である。
この先生は四書の朱註まで全部読むのであったから、竹添先生のときほど一瀉千里《いっしゃせんり》ではなかったが、ふしぎにうっすらと意味がつかめるようになってきた。しかしおもしろくないことはやはり同じことであった。そしてもうひとつ困ったことは、この先生が大の孔子崇拝者で、言ひとたびこれに及ぶと滔々として孔教のありがたみを説くことであった。ぼくはこれに対して少なからぬ反感をおぼえた。
「人間はだれでも孔子さまのおっしゃったとおりにしなければいけないのですか」
あるときぼくは鬱憤の一端をこんなふうにもらした。
「あたりまえだ」
漢学の先生は一言のもとにこういいきった。しかしなぜあたりまえだかということは少しも説明してはくれなかった。ぼくは先生があたりまえだといいきった途端、人間はかならずしも孔子のいうとおりに実行しなくてもいいのだという確信みたいなものを、はっきりと心につかむことができた。(『女妖啼笑』「深巷雑談」)
教育とはこんなものである。自分の思い通りの方向へ無理矢理人を動かすことはできない。
そんな奥野氏がその外祖父・橋本綱常の碑の除幕式に参列した時のことである。撰文の竹添井井《たけぞえせいせい》、書丹の宮島詠士などに加え、森鷗外も臨席し、式辞を述べた。鷗外は建碑の発起人の一人であった。綱常はその上官だったのである。
式後鷗外はぼくにできるだけ左伝《さでん》を反復して読めと教えた。そののち怠惰この上ないぼくが、中国の古典のなかで少しでも精読したものがあったとしたならば、それは左伝であるが、そういう機縁はその日の鷗外の教えに発したものというほかはない。数日間この感激にただもうわくわくして身のおきどころがないほどであった。(同書所収「雲漠々」)
教育とはこんなものである。ところが我が友人の某君はこの話を読み、舞人の身にして大いに感ずる所あり、防疫のための蟄居に備え、早速加藤正庵の『春秋左氏傳國字辨』《しゅんじゅうさしでんこくじべん》を購入したという(*2)。鷗外の感化は遠く令和の世に及んでいる。時代を越えた遠隔学習、まことに時宜を得たるものではないか。
(*1)「四分間 一名学振面接記」
(*2)「先哲遺著 漢籍國字解全書」第13・14・15巻、早稲田大学編集部、1910~1911年。
採用されたのは大学院へ進学する直前の三月であり、丁度三年と十日勤めたことになる。無為徒食のまま大学院の日々を荏苒《じんぜん》と過ごすのは心中安からざるものがあり、且つ学士の学位も得たことであるから金を取って人に教えるのも許されようと思い、ここに職を求めたのであるが、幸いに取り立てられたのである。
裏を返せば、学部のうちは未だ金を取って人を教えるほどの学問は無いと考えていたのである。
修行は金を使つてする業《わざ》で、金を取る道は修行ではない。(森鷗外『澀江抽齋』その三十二)
故に漢文の会の如きも、資料の用意に要する費えも全て己が嚢中より出だし、これを後輩諸君に請わなかった。しかしそれはわたくしの修行にはなっても、身銭を切って学を修めることを学ばしめることは出来ない。そこで暫く経ってからは複写費用だけ醵出してもらうようにしたのである。
三年の月日は僅かなものではあるが、その間拳々服膺《けんけんふくよう》していた古言、常に念頭を去らなかった故事がいくつかある。
古言というは、「やつてみせ言つて聞かせてさせてみて誉めてやらねば人は動かじ」云々の歌である。これは註釈を施すに及ぶまい。
故事の一は下の如きものである。
小島成齋が神田の阿部家の屋敷に住んで、二階を教場にして、弟子に手習をさせた頃、大勢の兒童が机を並べてゐる前に、手に鞭を執つて坐し、筆法を正すに鞭の尖《さき》を以て指《ゆびさ》し示し、其間《そのあひだ》には諧謔を交へた話をしたことは、前に書いた。成齋は話をするに、多く伊澤柏軒の子鐵三郎を相手にして、鐵坊々々と呼んだが、それが意あつてか、どうか知らぬが、鐵砲々々と聞えた。弟子等もまた鐵三郎を鐵砲さんと呼んだ。
成齋が鐵砲さんを揶揄《からか》へば、鐵砲さんも必ずしも師を敬つてばかりはゐない。往々戲言《けげん》を吐いて尊嚴を冒すことがある。成齋は「おのれ鐵砲奴《め》」と叫びつつ、鞭を揮つて打たうとする。鐵砲は笑つて逃る。成齋は追ひ附いて、鞭で頭を打つ。「ああ、痛い、先生ひどいぢやありませんか」と、鐵砲はつぶやく。弟子等は面白がつて笑つた。かう云ふ事は殆ど毎日あつた。
然るに此年の三月になつて、鐵砲さんの父柏軒が奧醫師になつた。翌日から成齋ははつきりと伊澤の子に對する待遇を改めた。例之ば《たとへば》筆法を正すにも「德安さん、其點《そのてん》はかうお打なさいまし」と云ふ。鐵三郎は餘程《よほど》前に小字《をさなな》を棄てて德安と稱してゐたのである。この新な待遇は、不思議にも、これを受ける伊澤の嫡男をして忽ち態度を改めしめた。鐵三郎の德安は甚しく大人しくなつて、殆どはにかむやうに見えた。(『澀江抽齋』その七十六)
わたくしは人が概ね齢十五を過ぎれば、均しくこれを紳士淑女として遇するようにしている。これは紳士淑女としてのふるまいを期待することになるが、こちらもまた相手を辱めぬ内容を教えるよう努めねばならない。
相手を辱めんことを恐れるがために、わたくしは己の責任において善美と認める所は、たとえ相手が年少であったとしても、子供向けに改変することなく全て一級のものを与えている。勿論その人に応じて示すべきものを選択するのではあるが、その人に適合する一級品を選ぶのであって二流三流の品に甘んぜしめるわけではない。
わたくしはゆとり世代と称せられるだけあって、大人は真実を隠蔽しているという観念を幼き頃より抱き続けてきた。それと同時に「知的な蔑みは最低の暴力である」という訓戒も受けてきた。わたくしが常に人を紳士淑女として遇する所以である。
故事の二は奥野信太郎氏の記す所である。奥野氏はわたくしよりおよそ一世紀前に同じ学校を卒業し、親の意嚮により陸軍士官学校を受験するも二日目わざと科場に赴かず晴れて落第、永井荷風の教えを受けんとして三田に進んだが、惜しいかな荷風は既に講壇を去っていた。北京留学などを経、奥野氏は最終的に慶應義塾で中国文学を講ずることとなる。
これ自体、受験子の緊張を解くには好箇の逸事であるが、わたくしがここに記したいのはこの事ではない。幼き日の奥野氏が漢学の先生のもとに通っていた時の話である。
この先生は四書の朱註まで全部読むのであったから、竹添先生のときほど一瀉千里《いっしゃせんり》ではなかったが、ふしぎにうっすらと意味がつかめるようになってきた。しかしおもしろくないことはやはり同じことであった。そしてもうひとつ困ったことは、この先生が大の孔子崇拝者で、言ひとたびこれに及ぶと滔々として孔教のありがたみを説くことであった。ぼくはこれに対して少なからぬ反感をおぼえた。
「人間はだれでも孔子さまのおっしゃったとおりにしなければいけないのですか」
あるときぼくは鬱憤の一端をこんなふうにもらした。
「あたりまえだ」
漢学の先生は一言のもとにこういいきった。しかしなぜあたりまえだかということは少しも説明してはくれなかった。ぼくは先生があたりまえだといいきった途端、人間はかならずしも孔子のいうとおりに実行しなくてもいいのだという確信みたいなものを、はっきりと心につかむことができた。(『女妖啼笑』「深巷雑談」)
教育とはこんなものである。自分の思い通りの方向へ無理矢理人を動かすことはできない。
そんな奥野氏がその外祖父・橋本綱常の碑の除幕式に参列した時のことである。撰文の竹添井井《たけぞえせいせい》、書丹の宮島詠士などに加え、森鷗外も臨席し、式辞を述べた。鷗外は建碑の発起人の一人であった。綱常はその上官だったのである。
式後鷗外はぼくにできるだけ左伝《さでん》を反復して読めと教えた。そののち怠惰この上ないぼくが、中国の古典のなかで少しでも精読したものがあったとしたならば、それは左伝であるが、そういう機縁はその日の鷗外の教えに発したものというほかはない。数日間この感激にただもうわくわくして身のおきどころがないほどであった。(同書所収「雲漠々」)
教育とはこんなものである。ところが我が友人の某君はこの話を読み、舞人の身にして大いに感ずる所あり、防疫のための蟄居に備え、早速加藤正庵の『春秋左氏傳國字辨』《しゅんじゅうさしでんこくじべん》を購入したという(*2)。鷗外の感化は遠く令和の世に及んでいる。時代を越えた遠隔学習、まことに時宜を得たるものではないか。
(*1)「四分間 一名学振面接記」
(*2)「先哲遺著 漢籍國字解全書」第13・14・15巻、早稲田大学編集部、1910~1911年。
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