暗合文

蓮實重彦の『フランス語の余白に』に曰く、

視覚的、あるいは聴覚的にフランス語へと接近するのではなく、もっぱら手を動かして、つまり書くことによって肉体的にそれと同化すべく作られているのだ。◆そのために、各課の冒頭に短いテキストが置かれている。これは正しい発音で読まれ、意味を正しく解釈される必要のない文章である。そうされてもいっこうにさしつかえないが、利用者諸氏は、これらの文章をただ盲滅法に書き写し、ついには原典を見ずに全文がすらすら書き綴れるようになってほしい。

確かに書く効用は大きい。沈黙は金であるだけでなく、筋の正しい文章が書けさえすれば信用は得られるものであるから、結句これが早道ということもある。また書き写すときに、始めは一語一語確かめながら写していたものを、次第に一句ごと、一文ごとと息を長くしてゆけば、文章の暗記に慣れることが出来る。

ただわたくしの学習法は、先輩の佐藤雄太氏が鼎談で述べるのと同様(*1)、音読を主としている故、蓮實氏の挙げる例文も四五回音読して記憶したあと紙に記して脳裏に刷り込む方式を採った。

蟄居が続いて人と話すことが少なくなると物言いが稚拙になり、発音も悪くなる。そこで毎夜寝に就く前に中国語、フランス語、英語の音読を行うようにしている。中国語は小学生向けに古典を書き改めたもの、今は『西遊記』を読んでいる。フランス語はひとまず蓮實氏の著書の反復と、フランス語版『陰翳礼讃』などである。英語は原仙作著・中原道喜補訂の『英文標準問題精講』に拠り、例題の文章十題分を読み上げ、一篇は暗記することとした。この本は原氏二十五歳の時の著作で、1933年上梓、従って旧制中学生あたりを読者に据えて書かれたものであろう。暗記のためにはわたくしにとって恰好の題材である。

さてこの本を読んでいて妙な感覚を味わった。ある問題の文章は次のように始まるのであるが、

A well-known publisher told me the other day that he was recently asked to equip a library in a new house in North London, ...

どこか見覚えがあるように思ったのである。初見の文に違いないのだが、どうもガードナーの文を読んでいるような心地がする。何のことはない、出典をみるとその人 Alfred Gardiner の文であった。ガードナーの文は行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが』に収められているのを読んで以来、その風格を好もしく思い、原文を三篇ほど暗誦したことがあったため、彼の音調を聞き覚えていたのであろう。

が、次の問題を読むに及んで、わたくしは一噱《いっきゃく》を禁じ得なかった。

出典を示さずに引かれた一節にある時ふと出くわして「これを書いたのは誰々に違いない」と叫んだ経験を我々は誰しもしたことがあるだろう。そのような場合、見慣れたもののごとく感ぜしめるのはその文に盛られた思想というより、その思想の表現の仕方であることの方が多い。(*2)

やはり恰好の題材であった。

(*1)24時間フル言語宣言!――言語系男子の白熱座談会」『pieria【ピエリア】』2012年春号(通巻第4号)、東京外国語大学出版会、pp.62-65.
(*2)It is possible that we have all at some time or other had the experience of chancing upon a passage quoted without indication of authorship, and exclaiming--"So and so must have written that." In such a case, it is often not the thought that strikes us as familiar so much as the way in which the thought is expressed. --William H. Hudson, An Introduction to the Study of Literature
原氏前掲書p.74.


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