十五年
この文章を書こうとしてから数週間が経ってしまったが、来る日も来る日も同じ暮らしをしているために、筆をとるのもつい延び延びになりがちであった。とはいえ書斎にこもっていては年来の神経痛を悪くするばかりであるから、一日に一度は町内を歩くことにしている。この晩春はあやしいまでに好天に恵まれている。
わたくしの住まう所は、五十年ほどまえ山を開いて造成せられた団地で、家族は「1970年のこんにちは」をこの家で迎えたのである。団地には幼稚園や小学校もあってわたくしはそこへ通っていたが、中学へ上がって東京へ通うようになってよりこのかた、団地の中をつぶさに見ることもなくなっていた。拙廬は団地の端、駅へと下りる出口近くにあるが故である。且つ中学は始業が早く、月の出ているうちに家を出て月の出たあと帰る日々なのであった。
今あらためて近所をめぐってみると、造成当時は土地があったためか、古い家を壊したあと一軒分の土地に二軒肩を寄せ合っているところもある。そして家ごとに必ずといってよいほど庭があり、花卉草木は単調な暮らしの中の慰めとするに足りるものである。
最も多いのは三色菫や鬱金香《チューリップ》、しかし八重桜や蘇鉄や夏蜜柑などが濃い影を落とす庭もあり、松の芽が軒と高さを競う風景も稀ではない。また石楠花の佇むひともとや垣根をなだれる素馨に加えて、意外にも躑躅を植えた家がほとんど数十歩に一軒は見える。街路樹は桜、山道も桜、ただ斜面は躑躅であるから今時分は町内躑躅の盛りである。時に玄関先に残された自転車とともに朽ちかけて末摘花すら居らぬであろう蓬屋もあるが、そのような家には豆の花が咲いている。
このような次第であるから、舗装せられた通りすらあたかも花園の如き香りに満ちていることがある。
だが嘗て二軒あった歯医者は空き屋となり、商店の人家となったところを過ぎれば、そぞろに今昔の感がある。故山に在りながら遊子の情を抱くとは妙なことではないか。しかし十五年という月日を思えば、それもまた道理ではなかろうか。
わたくしの住まう所は、五十年ほどまえ山を開いて造成せられた団地で、家族は「1970年のこんにちは」をこの家で迎えたのである。団地には幼稚園や小学校もあってわたくしはそこへ通っていたが、中学へ上がって東京へ通うようになってよりこのかた、団地の中をつぶさに見ることもなくなっていた。拙廬は団地の端、駅へと下りる出口近くにあるが故である。且つ中学は始業が早く、月の出ているうちに家を出て月の出たあと帰る日々なのであった。
今あらためて近所をめぐってみると、造成当時は土地があったためか、古い家を壊したあと一軒分の土地に二軒肩を寄せ合っているところもある。そして家ごとに必ずといってよいほど庭があり、花卉草木は単調な暮らしの中の慰めとするに足りるものである。
最も多いのは三色菫や鬱金香《チューリップ》、しかし八重桜や蘇鉄や夏蜜柑などが濃い影を落とす庭もあり、松の芽が軒と高さを競う風景も稀ではない。また石楠花の佇むひともとや垣根をなだれる素馨に加えて、意外にも躑躅を植えた家がほとんど数十歩に一軒は見える。街路樹は桜、山道も桜、ただ斜面は躑躅であるから今時分は町内躑躅の盛りである。時に玄関先に残された自転車とともに朽ちかけて末摘花すら居らぬであろう蓬屋もあるが、そのような家には豆の花が咲いている。
このような次第であるから、舗装せられた通りすらあたかも花園の如き香りに満ちていることがある。
だが嘗て二軒あった歯医者は空き屋となり、商店の人家となったところを過ぎれば、そぞろに今昔の感がある。故山に在りながら遊子の情を抱くとは妙なことではないか。しかし十五年という月日を思えば、それもまた道理ではなかろうか。
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