『言語学大辞典』を読む

華道に専心しているある人が言うには、子供の時、植物になりたかったのだという。小さい頃から木の葉を並べて遊んでいたりしたのだという。周室の始祖・后稷《こうしょく》が幼いとき麻などを植えて遊んでいたというのを思い出させる話である(*1)。同じく子供であっても、俎豆《そとう》を陳《なら》べ礼容を設けて遊んでいた孔子のような人もいる(*2)。吾は孔子に従わん、と思うのであるが、わたくしはここに彼我の差異を見るのである。

わたくしとて四時《しいじ》草木の栄落に心を寄せる者であるが、花は野にあるようにの精神よりは、人の心を種としてよろずの言の葉となりゆくものにこそ一入の感慨を覚える傾きがある。千紫万紅を楽しんでいるのか、柳暗花明にうつろう心を楽しんでいるのか。

ともかくわたくしは心の種の方に一層心惹かれるのである。言語そのものに対してもまた然りで、且つある種の顚倒が起こっているのが可笑しいのであるが、所謂「自然言語」はわたくしにとって心を種とする言の葉で、「人工言語」は野の花か、木か、石か、水か電気のようなものである。

言語はその構造だけでも人を引きつけるのに十分ではあるが、わたくしの関心はその言語の使い手の方へ向かってゆかざるを得ない。理性・感情を縦横の糸にして文体を織りなし、それを負って生きる人々の姿へと向かってゆく。言語は人間世界を理解する手段である。

その意味で、今読んでいる『言語学大辞典』はわたくしにとって世界史の書である。逆に世界史の書物を読む時はそこに現れる人々がいかなる言葉を話していたのかという問いが常に念頭を去来する。

『言語学大辞典』には文字通り世界史に関わる記述が随所に現れる。「あ」から読み始めた人はすぐさま次のような説明に出くわすことになる。

アイスランドは、9世紀の後半、ノルウェーより植民が始まった。Landnámabók「植民の書」によれば、最初の植民者は西ノルウェー出身のインゴゥヴル・アウドナルソン(Ingólfur Árnarnson)で、877年、現在の首都レイキャヴィークの地に居をかまえたとされる。このような事情から、アイスランド語は中世ノルウェー語とほぼ同一の言語であった。エッダ詩、サガ文学などが特にアイスランドで栄えたのは、この島が母国をはるかに離れた孤島であったこととも無関係ではなかろう。アイスランド語で国外へでることをfara utan「海外から帰朝する」と表現するのは、その母国からみて、「帰ってくること」がアイスランドからみると海外へでることを意味していたからである。(「アイスランド語」p.1ÁrnarnsonArnarsonか。)

数頁後の「アイヌ語」は90頁近くの分量があるが、

a(単数形)、rok(複数形)「座る」という自動詞がある。この助動詞《aおよびrokという助動詞。引用者注》も、語源的には、この自動詞と関係があり、ほんの数十年前まで、a(単数形)rok(複数形)という関係が保たれていたようである。しかし、このごろは、ほとんど単数、複数の区別なくaが用いられるようになった。rokは、「古いことば」(したがって「丁寧なことば」)として残っている。p.42

とあるのを読むと、「このごろ」というその頃のアイヌ語話者がどれほどいたのか思いを致さずにはいられない。

「アッカド語」「アラム語」「アラビア語」などはまさに歴史を理解する上で知らざるべからざる言語、特に「アッカド語」はこれが解読されたればこそ世界史の記述が可能になったのである。「アナトリア諸語」など、その種の言語は枚挙に遑がない。

人間の移動の跡が言語史・研究史に刻まれていることもある。アイスランド語がそうであったが、他にも

アホム語は、13世紀後半から18世紀末まで、アッサムのブラフマプトラ(Brahmaputra)川流域を支配したタイ系民族の言語で、現在では、文献を残すのみの死語となっている。〈…〉
このタイ族の一派が、ビルマからアッサムに進出したのは13世紀初頭のこととされ、その王朝は、16~17世紀を最盛期として18世紀まで存続した。しかし、その間に、比較的少数であったとされるアホム支配層の言語がこの地域の共通語となった形跡はなく、むしろ、アホム自らがインド・アーリア系のアッサム語を話すヒンズー教徒に同化することとなった。グリアスン(G. A. Grieson, 1904)によれば、おそらく19世紀半ばごろまでは、deodhaiとよばれる伝統宗教司祭クラスの間では、まだアホム語が保たれていたが、彼のインド言語調査の時点では、deodhaiたちの間でも、すでに事実上の死語と化していたという。(「アホム語」p.445

ビンバシ・アラビア語(Bimbashi Arabic
モンガラ・アラビア語(Mongalla Arabic/ Mongallese)ともいう。トルコのエジプト総督がスーダン遠征を企図して、1821年、上エジプトのヌビア(Nubia)地方で徴兵した軍隊の中で生まれたピジンを起源とする。当初より部族構成が多様であり、1800年代後半には、スーダン南部出身者が、多数を占めることになった。強制的にイスラムに改宗させられた彼らは、その家族とともに独自の集団を形成して、ヌビ人(Nubian)と呼ばれた。媒介言語であるアラビア語エジプト方言、スーダン方言を基にして生まれたこのピジンは、1870~1920年頃、スーダン南部諸州で使用されたが、今は、次の234に発展し、別名をもつ。言語名は、トルコ語起源のエジプト方言bikbāšī/ bimbāšī「少佐」、および赤道(Equatoria)州白ナイルの町モンガラ(Mongalla)に由来する。(「アラビア語のピジン・クレオール」p.484

日本では、ギリヤーク語(Gilyak、またはニクブンNiɣvŋ)学者の服部健が、戦時中の小樽に収容されていたアッツ方言の話し手から聴取調査をしてえた資料は、アッツ方言が失われていく現在、貴重な資料である。(「アリュート語」p.509

この中で、東部アルゴンキン諸語は、ヨーロッパからの移住者が初めて遭遇したインディアン語といってもよく、17世紀からすでに系統だった研究が始められていた。(「アルゴンキン語族」p.516

これまた枚挙に遑がない。しかしこれらの抄出を以てしても、わたくしが『言語学大辞典』を読む際の関心のありかを理解していただけようかと思う。無論、これらは言語そのものの構造を明らかにしようとする上では周辺的な知識である。また事典から得られる知識に過ぎないことも言を俟たない。最善の方法はその言語を学び、その言語を通して何が見えるかを知ることである。その時ほど人間世界が強烈に迫ってくることはない。それでも、全七巻、約一万頁に及ぶ記述に取り敢えず目を通すことで、諸言語を俯瞰する視点をいかほどか得ることは出来るであろう。

『言語学大辞典』を読むに当たっては興味深い記述を書き留めるようにしているのであるが、慣れないことをしたためか、手首を痛めてしまい、十日ほど中断を余儀なくされた。急ぐことではないので、身体髪膚を敢えて毀傷せざる程度にすることも忘れぬようにしたい。

(*1)『史記』周本紀
(*2)『史記』孔子世家

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