車窓

髪を剪りに東京へ行った。帰りの電車、窓外の夕陽が美しかった。太陽はいくらか雲に隠れて星雲のような光を発するのみなので、手を額に当てることもなく心ゆくままに眺めることが出来る。家々は灯をともすにはまだ早く、影になるばかりで、晩照の壮麗さにひれ伏すがごとくである。関東平野には落暉《らっき》の勝利が満ちていた。

京浜急行の平和島から蒲田あたりの高架線からは遠山を望むことができ、今日は富士の峰までも薄墨色の居姿《いすがた》を見せていた。

五六分のあいだ広がるこの平遠の画面は、実のところ、東京への行き帰りにわたくしが日頃目にしていた景色なのである。だが東京に会する諸友にしてともにこの光景を賞する者はいない。帰路を共にする者がないからである。わたくしは常にこの眺望を独占しながら、その日一日を反芻するのである。

一時間以上の道程を行き来する者の一日には、前奏があり、後奏がある。「丘を越えて」のように長い前奏と「君恋し」のように長い後奏がある――恰も好し、後者には「埴生の宿」が引用せられている。その長短は異なるにもせよ、それぞれがそれぞれの調べをただ一人聴いていることであろう。雲の彼方に思い遣るのはその響きである。

横浜に着いた時、空は菫色になった。紫陽花の色に染まる頃、横須賀に着いた。

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