登場人物の心情について
物語を読むとき何に注意すべきかと中学生や高校生に訊くと、大抵異口同音に、登場人物の心情と答える。それはその通りだ。だが何も皆そろってこれを第一に置く必要はなかろう。登場人物の心情は確かに読み取れねばならないが、女に女郎蜘蛛の刺青を彫る時とか、屋根裏を散歩する時とか、金閣寺を焼くときなどの心情は、読み取れなくとも何の痛痒もないであろうし、こんな人物の心情など分かりたくもないと思うこともあるかもしれない。
それに対してわたくしは、是非とも文章表現に目を向けて欲しいと思うのである。何故そのような書き方をしたのか。この問いこそが文学への第一歩だと思うのである。他にも書きようがあるだろうに、と思えたならばなお良い。それは「自分なら別の書き方をしたであろうに」という感想を含意しているから、多少とも主体的に――創作者の立場になって――考え始めることが出来ていることを意味するからである。このような角度で文章を見てゆけば自分の詞藻も次第に豊かになろうというものである。
表現を主題化することは、誰しも自然にできるものではないらしい。その一方、学ばずとも言葉の扱いは自然にできるようになるものだと考える向きもあるようだ。しかし耳が聞こえているだけでは音楽家を名乗ることはできない。目が見えているだけで画家と称することはできない。音や色、形といったものを、文字通り手に取るが如く自在に操れるようでなければ話にならないであろう。鑑賞者とても同様で、耳目の訓練を欠かすことはできないし、訓練しただけ聞こえるものや見えるものが変わってゆく筈である。
登場人物の心情の如きは、仮に何らかの心情を感受したならば、感受させるだけの何かが表現の中にあるに相違ない。それを考えてゆけば良いのである。
これらは言語が何であろうと同じことである。古文を読むときも、何故ここで突然情景描写が現れるのか、などといった問いを立てつつ原文を解きほぐしてゆけば、『源氏物語』も単なる好色列伝では済まなくなる。「事」ばかり見て「言葉」を無視すると『源氏物語』はそのようなものにしか見えないかもしれないが、実はそうではない。しかし一度に論ずることは出来ないから、このあたりで終わりにしよう。何を読むにもせよ、「事」に感動しているのか「言葉」に感動しているのか分からないところにまでゆくのが当面の目標となる。
それに対してわたくしは、是非とも文章表現に目を向けて欲しいと思うのである。何故そのような書き方をしたのか。この問いこそが文学への第一歩だと思うのである。他にも書きようがあるだろうに、と思えたならばなお良い。それは「自分なら別の書き方をしたであろうに」という感想を含意しているから、多少とも主体的に――創作者の立場になって――考え始めることが出来ていることを意味するからである。このような角度で文章を見てゆけば自分の詞藻も次第に豊かになろうというものである。
表現を主題化することは、誰しも自然にできるものではないらしい。その一方、学ばずとも言葉の扱いは自然にできるようになるものだと考える向きもあるようだ。しかし耳が聞こえているだけでは音楽家を名乗ることはできない。目が見えているだけで画家と称することはできない。音や色、形といったものを、文字通り手に取るが如く自在に操れるようでなければ話にならないであろう。鑑賞者とても同様で、耳目の訓練を欠かすことはできないし、訓練しただけ聞こえるものや見えるものが変わってゆく筈である。
登場人物の心情の如きは、仮に何らかの心情を感受したならば、感受させるだけの何かが表現の中にあるに相違ない。それを考えてゆけば良いのである。
これらは言語が何であろうと同じことである。古文を読むときも、何故ここで突然情景描写が現れるのか、などといった問いを立てつつ原文を解きほぐしてゆけば、『源氏物語』も単なる好色列伝では済まなくなる。「事」ばかり見て「言葉」を無視すると『源氏物語』はそのようなものにしか見えないかもしれないが、実はそうではない。しかし一度に論ずることは出来ないから、このあたりで終わりにしよう。何を読むにもせよ、「事」に感動しているのか「言葉」に感動しているのか分からないところにまでゆくのが当面の目標となる。
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