距離について
あゝ麗はしい距離《デスタンス》、
つねに遠のいてゆく風景…… 吉田一穂「母」
近ごろdistanceという語を耳にするたびに思い出すのがこの詩句で、新語がいち早く古びるのに対して、詩語は百万遍繰り返されようとも日常生活を反復から救い出す力を失わぬように思われるのは奇妙である。
物は言いようということもあるから、「男女授受するに親《みづか》らせず」(『孟子』)は極端としても、平安時代の昔を思い出して、寝殿造の如く空気の出入りを自由にし、御簾や几帳を隔てて話をしましょうと言ったらそれなりの賛同を得られるかもしれない。たとえそれが無理だとしても、畳一枚離れましょうと言われた方がどれほど分かりやすいかわからない。
距離や間合いが「麗はし」さを生むのだとは密かに持論としてきた所であるが、ここで言う距離なるものは畢竟実際に空間における感覚に根ざしているので、漢文の会をオンラインで行ったり、甚だしくはオンラインアフタヌーンティーを試みたりしたものの、今なお模索は続いていると言わざるを得ない。
オンラインは寧ろ距離が近すぎるのではないかと最近になって思い始めた。参加者の顔が皆こちらを向いており、面と向かって話さぬわけにはゆかず、図らずも小津映画の役者の苦労が偲ばれるほどである。この方式ならば画面を部屋の端に置いておくくらいがわたくしとしては丁度良い。そしてまた、よそ見をできないのが何より辛い。風景に眼差しを逃がしながら話をしたいので、今後は相手を考慮せず積極的によそ見をすることを試みたい。秋になったらオンラインで月見ができるか実験するのも一興であろう。
人に会おうと会うまいとどちらでも構わぬ気楽な境遇に恵まれていればこそ、このような戯言が言えるのであるが、遠く離れながらなおかつ継続的に顔を合わせるという状況に、湯湯婆を抱きながら冷房をつけているような思いがするのも偽らざる感覚である。それだけ距離感というものが我が生活の中で重要な意味を持っていたということであろう。
つねに遠のいてゆく風景…… 吉田一穂「母」
近ごろdistanceという語を耳にするたびに思い出すのがこの詩句で、新語がいち早く古びるのに対して、詩語は百万遍繰り返されようとも日常生活を反復から救い出す力を失わぬように思われるのは奇妙である。
物は言いようということもあるから、「男女授受するに親《みづか》らせず」(『孟子』)は極端としても、平安時代の昔を思い出して、寝殿造の如く空気の出入りを自由にし、御簾や几帳を隔てて話をしましょうと言ったらそれなりの賛同を得られるかもしれない。たとえそれが無理だとしても、畳一枚離れましょうと言われた方がどれほど分かりやすいかわからない。
距離や間合いが「麗はし」さを生むのだとは密かに持論としてきた所であるが、ここで言う距離なるものは畢竟実際に空間における感覚に根ざしているので、漢文の会をオンラインで行ったり、甚だしくはオンラインアフタヌーンティーを試みたりしたものの、今なお模索は続いていると言わざるを得ない。
オンラインは寧ろ距離が近すぎるのではないかと最近になって思い始めた。参加者の顔が皆こちらを向いており、面と向かって話さぬわけにはゆかず、図らずも小津映画の役者の苦労が偲ばれるほどである。この方式ならば画面を部屋の端に置いておくくらいがわたくしとしては丁度良い。そしてまた、よそ見をできないのが何より辛い。風景に眼差しを逃がしながら話をしたいので、今後は相手を考慮せず積極的によそ見をすることを試みたい。秋になったらオンラインで月見ができるか実験するのも一興であろう。
人に会おうと会うまいとどちらでも構わぬ気楽な境遇に恵まれていればこそ、このような戯言が言えるのであるが、遠く離れながらなおかつ継続的に顔を合わせるという状況に、湯湯婆を抱きながら冷房をつけているような思いがするのも偽らざる感覚である。それだけ距離感というものが我が生活の中で重要な意味を持っていたということであろう。
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