群飲酒の禁

大阪の宴会自粛令を聞いて思い出すのは漢代の法律である。『漢書』文帝紀の文穎注に曰く、


漢律にては、三人以上 故なくして群飲酒すれば、罰金四両。

漢律、三人以上無故羣飮酒、罰金四兩。


つまり差し向かいしか許されなかったのである。


かくも珍妙なる法律が存在した理由について、西嶋定生は下の如く述べている(*1)。


この群飲酒の禁止は、治安を目的とするために集会を禁止したものではない。ひとびとが集会して酒を飲むということは「礼」を行うことであり、「礼」こそは国家が社会秩序の基本とするものであるから、みだりに群飲酒をすれば、この「礼」を破壊する行為となる、という思想から生まれた禁止令であった。それゆえ、あるばあいには、地方官がこの禁止令をあまりにも厳格に施行したために、民間では婚姻という重要な「礼」の席においてさえ、宴飲が禁止され、そのゆきすぎがたしなめられたこともある。


前に引いた注釈は、文帝が即位にあたり、大赦を行い、民に爵位を与え、女子百戸ごとに牛・酒を賜い、五日間の宴飲(「酺」)を許すという詔(*2)に付せられたものである。漢代には民爵といって、庶民もまた爵位によって上下の序列を与えられていた。


賜爵のさいの酺は、里社の神前における共同飲食儀礼として行われたことになる。このような神聖な共同飲食儀礼において、新しい爵位の序列によって定められた席に着坐するということは、爵位による里内の新しい身分秩序が相互に確認される機会になるのみならず、その身分秩序が神前で確定したという誓約的性格をもつものとなり、それによって、その後の里内での生活秩序が規律されることになる。(*3)


この「里」を「会社」の二字に改めてみるのも一興であろう。宴会は多分に儀式的なものであって、いかに礼法の羈束を逃れんとする現代人と雖も、いざその場に臨めばいずこに坐すべきか知らざるに至ることもまたしばしばである。それならば折据《おりすえ》を持参し、数字を書いた札を各人に引かせて席次を決めるのが最も簡便であり、風趣もあろうと愚考するが、いかがであろうか。


このごろの世間の有様は、秦漢時代やら平安時代やらを思わせるところがあって、現代人をして、過ぎにし世を顧み、我こそは歴史の先端に在りと驕る心をば戒めるに十分である。東京の店の戸に虹の絵が掲げられているのを見、わたくしもお薬師様からお札を頂いて、天下の安康を祈願したいと思う。


(*1)『秦漢帝国』講談社、1997年、pp.148-149。

(*2)朕初卽位、其赦天下、賜民爵一級、女子百戶牛酒、酺五日。

(*3)西嶋前掲書、p.153。

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