書を読むことについて

 「この書は何と読むのでしょうか」と聞かれるたびに、わたくしは心中ひそかに反問する。「この書が読めたとして、それでこの書が理解できるようになるのだろうか」と。


また思う。ここに全く日本語を解さぬ人がいて、その人に、誰でもよい、例えば藤山一郎の歌を聴かせたとする時に、「この歌の詞はどういう意味なのか」という疑問が唯一の感想になることは有り得るのだろうか。


さらに考えるに、画中の人物が実在の人物と一々対応することに気が付いて、そこから物語が広がり、その絵の趣意が摑めるようになるといったことは有り得るだろう。しかしまた別の絵では、そこに描かれている湖が作者の親しく眼にした所であることが分かったとしても、それ以上のことはないかもしれない。あるいは湖に見えて実は湖ではないかもしれない。


鑑賞するのが難しいのは独り書のみではないのである。彫刻であろうと、能面であろうと、陶磁器であろうと、刀剣であろうと、難しいのである。困難の程度と解決の方法が異なりはするものの、畢竟相対的なものである。


対象の性質が根本的に異なることを度外に置いている点において、この理解は疎略に失するかもしれない。だが敢えて、かかる覚悟の齎《もたら》す効用の方をわたくしは取りたい。というのも、その作品に何と書いてあるか教えられた途端、そこで満足し、そこで鑑賞が終わる人が多いからである。しかしそれは、絵ならばその絵に何が描かれているかを知ったのと同じ段階に達したに過ぎない。そこから改めて鑑賞を始めなければならないのである。


然らば文字の理解と作品の理解とがいかに関係するかというに、それは作品次第であると言わねばならない。書の歴史は長い。表現は多様である。関係することもあろう、しないこともあろう。関係する場合がある以上、ひとまずどの作品についても読んでみるのも良いだろう。作品を理解するためにあらゆる努力を払うべきだというのは正論である。ただ一般の鑑賞者にとっては長い道程になることであるから、興味の趣く所と自力の及ぶ所に従えば十分とすべきであろう。


それよりも重要なのは、表現そのものに目を向けること、そして有形の表現を通して無形のものを見ようと努めることである。言語の流暢さのみによって人格が決するわけではない。外国語をいともたやすく操るものの野鄙なることを免れぬ人もあれば、たとえ日本語がたどたどしくとも、片言隻句や立ち居振る舞いからその教養の豊かさが滲み出る人もある。「人焉んぞ廋《かく》さんや」、人品の高下は見抜こうとする者があれば必ず見抜かれる。書も同様である。しかしその作品の風韻を感じ取り雅俗を見透そうとする意志を持たぬならば、たとえ字が読めたとしても、それは活字を読むのと、何ら選ぶ所がない。

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