五重塔
荷風の小説『すみだ川』を読んだ。主人公の長吉は中学生で、今戸から神田の学校に通っている。これが如何にも明治の世を映していて面白い。嘗て神田は民家の櫛比する中に、数多の学校が身を寄せ合っていたのである。その神田の学校というのが共立学校(*)であったなら一層妙であるが、果たしてどうであろうか。長吉は袴を穿いている。共立学校が洋装を制服と定めたのは明治二十八年である。明治十二年生まれの荷風が即ち長吉であったなら時代として齟齬を来さないが、「すみだ川序」には「わたくしは洋行以前二十四五歳の頃に見步いた東京の町々とその時代の生活とを言知れずなつかしく思返して、この心持を表すために一篇の小説をつくらうと思立つた」とあるから、空想は空想に留めておくべきであろう。とはいえ同じ学校にはあらずとも、身を長吉と思いなして今戸橋の欄干に凭れつつ、大川の日暮れを眺めてみたいと思う読者は少なくあるまい。その今戸橋も、今は無い。
今亡矣夫――今は亡きかな――これがわたくしの原風景であったといえるかもしれない。浅草を始め、『すみだ川』の描く濹上の町々は、高校時代――やはり荷風の文学に導かれて――先儒の風雅を偲んで漫歩した土地であり、この小説の一句ごとに往時の感懐が蘇るようであるが、しかし何ゆえか、常に眼前に揺曳するのは谷中の五重塔であった。天王寺の五重塔は昭和三十二年に回禄の禍に遭い、ただ礎石のみ残存している。わたくしはその前に佇立して、四角く開いた空を仰ぎ、授業を抜け出した蜷川幸雄がその軒陰に夢を結んだかもしれぬ塔《あららぎ》を頻りと思い描いていたわけである。
古典に親しむ者や歴史を愛好する者の眼は、かくの如きものではなかろうか。今見えているものの向こう側に何かを見ているのである。或はそこに何も無かったとしても何かを見ているのである。日本史の先生が修学旅行の引率で某所の城址を訪れた時、タブレット端末をかざすと再現された城の姿が見える仕掛けになっていたという。先生は「それも面白いけれども、心の眼で見るのも大切なんだよ」という。知者の言である。心眼を要する処に古を尋ねる妙趣がある。だが古典を読むに際して、現代文より猶のこと空想の助けを借りなければならぬにも関わらず、文法の知識を操れば事足れりとする向きが往々にしてあるのは、十代ならではの性急さというべきであろうか。
わたくしの眼はかくの如くであるから、現在目に見えるもののみから物事の好悪を判ずるが如きは、もはや為す能わざる所である。見えているものは結論であり、表面であり、いずれうつろうものである。甲より乙へ、匆々として時尚を逐う間に、果たして人生の楽事を味わい得るのであろうかと、その心事を忖度して転た《うたた》憐憫を催すこともあるが、固より一片の婆心である。
わたくしを谷中へ導いたのは漢文の先生である。墓碑を読んで古人の行いを観、苔を掃っては騒客の文業を追懐したもので、「これは上田敏の墓だ、上田敏は何という本を出した」「『海潮音』です」墓前で授業を受けたのである。さてこの先生は大学時代、福井文雅の講義を聴いていたという。福井氏は学生に、都電に一番から順に乗れと言ったそうである。曰く、今は貧しき町である所も、あと十年もすれば跡形もなくなってしまう。しかし見たことのある者だけが、そこが何であったかを透かし視ることができる。電車の窓からずっと町を見てゆきなさい。「大僧正などというのは俗の俗なるものだと思ったが」、聴講する学生の中で実行したのはただ一人、先生のみであった。この修業によって透視術を体得したのであろう。上野公園ではそこが寛永寺の境内であった頃のことを教わり、日暮里では太古の時代に辺り一面が海であった時の話を聞いたものであった。
執筆を怠るうちに師走となってしまった。しかし宮益坂の頂から富士の高嶺を望むには好適の時節であろう。そして坂を下りたならば、夏に飛び交う蛍火を楽しみにしばし川筋をたどるのも、渋谷ならではの風流である。
幸田露伴『小説 尾花集』。これも十代の頃に購入したものと思われる。
*共立学校:現在の開成中学校・高等学校の前身。
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