学者と常民
言語学の徒は奇妙な単語や例文を自在に繰り出すのを特技とするらしい。「私は鰻だ」の如き名文もあれば、「現在のフランス国王は禿である」「明けの明星は宵の明星である」など殆ど禅の公案に類するものまである。先日ある論文で次のような例文を見た。出典は『戦国策』である。
常民溺於習俗、學者沈於所聞。
常民は習俗に溺れ、学者は聞く所に沈む。
庶民は長年の習慣、日常の繰り返しに溺れ、学者は蓄積した知識の重みでずぶずぶと沈み込んだまま身動きが取れなくなる、というのである。古典を読んでいると、有無を言わせぬ正論に唖然とすることが間々あるが、人間がいかに進歩しないかを知り己を省みるよすがとなるのは、古典の貴ぶべき所以である。
この文は趙策上、武霊王の条にある。武霊王は胡服と騎射の導入に踏み切った人物であるが、これが中国の俗に反するとして臣下が諫言を献る。それらに対して王が反論しているのである。
王曰く、子が言は世俗の間なり。常民は習俗に溺れ、学者は聞く所に沈む。此の両者は、官を成して政に順ふ所以なり、遠きを観て始めを論ずる所以に非ざるなり。
王曰、子言世俗之間。常民溺於習俗、學者沈於所聞。此兩者、所以成官而順政也、非所以觀遠而論始也。
王が言う。貴下(趙文)の言葉は世俗の言い分である。常民は習俗に溺れ、学者は聞く所に沈む。この両者は、既定の官制を守って政策を粛々と行ってゆくことはできても、未来を見通し始原を論ずることはできない。
且つ夫れ三代は服を同じうせずして王たり、五覇は教を同じうせずして政す。智者は教を作り、愚者は焉《これ》に制せらる。賢者は俗を議し、不肖者は焉に拘《とら》はる。
且夫三代不同服而王、五霸不同教而政。智者作教、而愚者制焉。賢者議俗、不肖者拘焉。
そもそも夏殷周の三代は衣服制度が異なったにもかかわらずいずれも天下に王として君臨し、春秋五覇の政も民衆教化の道は同一でなかった。智者は教えを作り、愚者はそれに制御される。賢者は習俗の是非を検討するが、不肖者は世のならいに囚われる。
夫れ服に制せらるるの民は与《とも》に心を論ずるに足らず、俗に拘はるるの衆は与に意を致すに足らず。
夫制於服之民、不足與論心。拘於俗之衆、不足與致意。
制度や慣行の奴婢となっている民衆と哲学的な議論をすることはできない。
故に勢は俗と化し、礼は変と倶にするは、聖人の道なり。教を承けて動き、法に循ひて私無きは、民の職なり。知学の人は能く聞《ぶん》と遷り、礼の変に達すれば能く時と化す。故に己の為にする者は人を待たず、今を制する者は古に法《のつと》らず。子其れ之を釈《と》け。
故勢與俗化、而禮與變俱、聖人之道也。承教而動、循法無私、民之職也。知學之人、能與聞遷。達於禮之變、能與時化。故為己者不待人、制今者不法古。子其釋之。
それゆえ、政治や礼制が時代の推移と一緒に動いてゆくことこそが聖人の道であり、教えを受けて行動し私心無く法律に従うのは民の役割であるといえる。学問を心得ている人は新たに得たものに触発されて変化するものであり、礼制の変遷に通達していれば時世に合わせてゆくことができる。自己本位の者が人に頼らず、現在を掌握する者が過去に範を取ることがないのは、このためである。このことを理解せられよ。
ここでは変革こそが正道であるという主張とともに、統治者と被統治者を分かつものが何かが語られており、王たる者の視座を読み取ることが出来る。王によれば、彼の所謂「学者」は所詮被治者であるのみか、議論の相手にすらならないのであるが、これは儒者を指しているのである。王は別の所で儒者に言及しているし、趙文と同じく諫諍している公子成は詩書礼楽や仁義を口にしている。王からすれば、儒者は事あるごとに先例を持ち出し、固定した道理を繰り返し主張するだけの存在だったのであろう。
戦国時代になれば、知識の在り方としてそのような状態も現出していたのかもしれない。しかしそれが孔子の望む所であったかどうかは疑問である。何となれば、孔子は
学べば則ち固ならず。(『論語』学而)
學則不固。
と言っているからである。『論語』には次のような言葉もある。
子 四を絶つ。意毋《な》く、必毋く、固毋く、我毋し。(子罕)
子絶四。毋意、毋必、毋固、毋我。
先生は四つのことを絶ち切っておいでであった。恣意の無きように、臆測の無きように、固執の無きように、我を張らぬように、と。(*)
伊藤仁斎は「固無しとは、唯だ善に是れ従ひ、凝滞する所無きなり。我無しとは、善く人と同じくして、己を舎《す》てて人に従ふなり」と述べている(『論語古義』)。己を守って一歩も動かないというのではないのである。学びながら己を塗り固めてゆくだけでは、学の本義からますます遠ざかるのみである。
武霊王の批判の前には儒家も顔色無きようではあるが、儒家にもまた独自の役割がある。時代が変わっても守るべき価値観があることを人々に気付かせる役割である。諸子百家はあらゆる点で対立していたわけではない。儒家と法家も社会の中で相補う側面はあるのである。
(*)意・必・固・我は含蓄のある言葉で、ここは仁斎の解釈を踏まえて訳したが、別の解釈も存在する。朱注に従う倉石武四郎訳(『口語訳 論語』筑摩書房、1970年)を見てみると、
先生は四つのことを絶たれた。それはおもいこまないこと、無理を押さないこと。執着しないこと、我を張らないこと。
また「學則不固」の「固」も、仁斎は孔安国に従って「蔽」と解釈するが、倉石氏は下の如く訳している。
君子は、おもおもしくないと威厳がありませんし、ならったこともかたまりません。
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