音楽の慰め

 一月の末に、音楽家根本卓也先輩のお招きに与りその演奏会を拝聴した。楽器はチェンバロである。演目表には「愛する音楽にずたずたにされる幸せ。ご笑覧あれ。」とあって、確かに根本氏が篠山紀信の撮った三島由紀夫のように身を射られており、表情に喜悦の情が横溢しているところだけが異なっている。ここで「音楽にずたずたにされる」とはいかなる経験かが問題になる。

わたくしは芸術作品に対する時に身構えることが多い。長者が少者に教うる所は往々にして真実から遠く、名のみ芸術と称して魂を毒するものにややもすれば逢着する世に育ち、身を委ぬべき所を知らぬままにかかる姿勢が宿癖となったと見える。しかしながら猜疑心と方法的懐疑とは相異なるのであって、もし前者を抱くことがあればこれを陶冶して後者に転じなければならないのである。


音楽に対しては、全ての音を聴き洩らすまいとする。しかし今回の演奏会は半音階が主題であり、殊に初めの数曲は演奏後根本氏自ら「調律が間違っているのではないかと思われたかもしれませんが」と言うほどの崎嶇たる旋律を呈し、わたくしは忽ち疲弊してしまった。


不意に前方を見やると、小さな女の子が頻りに手を動かしている。根本氏の手の動きを真似ているのである。時には宙に鍵盤を叩くのをやめて、単に手を振って拍子を取って済ましている。古楽と戯れているのである。


なるほどこのような音楽の聴き方があったのである。考えてみれば今回の曲目は皆これ古典であって、古典ばかりを信用してきた者が今さら何を身構える必要があろうか。ここにおいて後半の作品は、幾本かある旋律から任意の一本を選び、その導きに随って鑑賞することとした。それはまことに愉快であった。


わたくしは今回の作品に身を裂かれることはなかったけれども、「ご笑覧あれ」とあるからには、ずたずたにされるのは飽くまで根本氏であって、我々はそのありさまを笑って見ておればよかったのであるが、演奏者の姿をよく観察するに至らなかったことは今もって反省している。



コメント

人気の投稿