杜詩の語法
詩と散文とで読解の方法が異なるということを、一般に国語教育では強調していないようであり、殊に漢文においては詩であろうと散文であろうと、訓読して現代語訳すれば済むと見做されているのではないだろうか。しかしそれでは漢詩を鑑賞することはできないのであって、試みに杜甫の詩を例として、難読の処を指摘し、読解の便としたい。
七言律詩「閣夜」に「野哭千家聞戰伐。夷歌幾處起漁樵。」とあって、中国詩人選集『杜甫 上』では「野哭 千家 戦伐に聞こえ 夷歌 幾処《いくしょ》か漁樵《ぎょしょう》より起こる」と訓読し、「戦争のつづくために野塚に泣きさけぶ声がどの家からも聞こえてくるし、漁夫や樵夫のすむあたりからは蛮人の歌い声がいくしょか起こってくる」と解釈している。恐らくそのような意味であろうが、もし原文が散文の中に置かれていたらこのように解釈することは不可能で、詩であるからこそこのように解釈されるのである。
上記の理解に従えば、「聞戰伐」の「戰伐」は状況を表す補語、「起漁樵」の「漁樵」は動作の起点を表すことになる。しかし散文における文法としてはかなり苦しく、「聞戰伐」はまず「戦伐を聞く」と解釈されるところである。また「漁樵」はすなどることと木を切ること、或は漁師と木こりの意味になるのが通常であり、「漁夫や樵夫のすむあたり」とは読めず、そもそも「起漁樵」は「漁樵を起こす」と読まぬ限り意味が通じないと思われる。
しかしながら、七言詩では一句七字を、文法上は苦しくともとにかく按配せねばならず、その結果このような表現が生ずるのである。また詩の内容からも、これは夜の詩であるから、「漁夫や樵夫のすむあたり」という漠然とした解釈が導き出されるわけである。漁樵すなわち蛮人なのか、漁樵と蛮人とは別の存在なのか判然としないが、始めから判然としないようになっているのであって、あとは読者の受け止め方次第ということになる。
次は文法から離れ、むしろ極めて単純な句を見てみよう。五言律詩「春日憶李白(春日《しゅんじつ》李白を憶《おも》ふ)」に「渭北春天樹。江東日暮雲。」(渭北《いほく》春天《しゅんてん》の樹。江東 日暮《にちぼ》の雲。)とある。これを『杜甫 上』では「いまわたしは渭北の春空の樹のもとであなたを思っていますが、あなたも江東の日暮れの雲にこちらを慕っておられることでしょう」と解釈しているが、下線部は原文に現れておらず、訳者が補った部分である(渭北は渭水の北、長安附近。江東は呉の地方をさす)。なぜこのように補えるかといえば、「春日 李白を憶ふ」という文脈が与えられているからであり、かつこの二句が対句を形成し、我と彼、地の北と南との対比が浮かび上がるように仕組まれているからである(もっとも杜甫が長安にいるという前提が必要ではある)。
では上記のように補って読まねばならないかというに、必ずしもこれが唯一の解釈となるわけではない。原文では二物が並置されているだけであるから、ここから何を感じ取るかはこれまた読者次第なのである。
このように見て来ると、漢詩の鑑賞は俳句の鑑賞に近いところがあることがわかるであろう。「夏草や兵どもが夢の跡」にせよ、これは名詞と名詞句とを並べているに過ぎない。ここがどこなのか、兵とは誰なのか、その夢はどのようなものであったのか、この句の時間帯は朝昼夜いつごろなのか、これら具体的なことを句は何も語っていない。読者は自ら問いを立て、自ら詩を作ってゆかねばならないのであるが、かかる修辞法は、ことによると漢詩から学んだものかもしれない。
ちなみに杜甫は芭蕉と違って散文が下手であったことで知られる。詩の題ですら何と読むべきかわからぬことがある。それに対し五言、七言、平仄、対句といった形式は彼の想念がぴたりとはまるものだったのであろう。定型の力を借りねば彼の志は表現できなかったのである。形式と内容との一致、形式の必然性を強く感じさせる詩人、これが杜甫である。
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